2009年4月23日木曜日

瞑想なんて餓鬼にやらすな!

と、“存在”にお断りしております。

 話が見えない人の為に前置き書きしますが、当方は瞑想法の指南役を事業者の希望でお受けしているのですが、宗教に依らず他者の誘導や特別な環境や機器を必用とせず単独で直に実践と体感が可能という導入のし易さから、「自分の子供に」「学校で」という話しに行きがちなのですが、ハッキリ断っています。

 本瞑想法に限らず、瞑想はどんな手法を用いようが特に子供には精神障害を来す危険性を孕んでいます。

 巷では瞑想に因る効能ばかりがクローズアップされていますが、副作用について殆ど触れられておりません。
 成長期の子供に瞑想は必用ありません。許されるのは精々黙祷レベルです。
 子供には子供が自分の好きな事に没頭出来る様に環境を与えてあげる、つまり無我夢中の邪魔をしないのが最良の瞑想環境です。
 「落ち着きが無い子供を落ち着かせたい」は大人のエゴです。
 清掃で雑巾掛けやスプリント・インターバルでグランドを走らせた方が極めて実用的且つ健康的な、健全な瞑想方法です。
 或はもっと深い瞑想状態所謂“トランス状態”を求めるなら、マラソンや水泳(100M個人メドレー)をやるのもいいでしょう。
 尤も、スポーツの場合は胸式口呼吸が主で無酸素運動と有酸素運動の違いもありますが、そうした手仕事と力仕事で得られるメリットは瞑想と一緒若しくはそれ以上です。

 坐禅やヨーガやメディテーションといった所謂“瞑想法”の実践は、こうした日常を介しての自然な営みで得られるコンセントレーション(精神統一)の一切を廃し、極めて短絡的且つ作為的に集中的に体系付けられた信者として受け入れる為の強力な方策であり、又それを十二分に理解している大人にのみ許される嗜みであり、それであってもクリエイティビティ向上(水平組織化)とプロダクティビティ向上(垂直組織化)は紙一重なのです。
 そして日本人の場合、その多くは後者へ向かいます。
 どちらが善いとは申しませんが、少なくとも現代に求められているのは前者でしょう。
 子供の“我侭”等些細な事です。我を落とすべきは大人の方です。その大人を従わせる為の瞑想法なのですから。
 特に鬱や自閉(自内)の傾向がある子供は、既に自己へ向き自我の落ちた一種の瞑想状態と同じですから更に自己へ追い込むのは正に自殺行為です。
 これは心の折れそうな弱い人間の救済を試みず、宗教者側に取り込み食い物にするカルト宗教の洗脳手法と一緒です。

 子供の定義についてですが、当方だと小学生児童以下が瞑想指導の対象外になります。つまり13歳未満をアウトにしています。
 ここ10年余り、日本では某宗教団体の影響で18歳未満の中高生迄も一括りに児童と呼び扱うという過保護政策が祟り何かと世間を騒がし問題になっておりますが、児童という言葉も常識として通じなくなるなんてホント、世も末ですね。
 但し、例えば石川遼くんの様なプロゴルファやレーサとか、幼少期からプロの世界を目指して厳しい特別な訓練を受けて育った心身共にマッチョで自律的な子供は例外です。
 本音はスーパーキッズは大歓迎なんですが、こればっかりは会わないとわかりませんね。

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