2010年2月9日火曜日

1%のアイデアを笑う者は1%のアイデアに泣く

子供の頃にエジソンの伝記を読んだ人は多い筈。
私はエジソンの異常行動から名言「天才は1%の閃きと99%の努力」の一般解釈「天才でも努力する」がデマゴギーで、「天才だから1%の閃きだけで99%も努力出来るのだ」と気付き興味が失せ、中学の頃には伝記がGEの広報戦略とさえ思っていた。

後に知るのはエジソンはアスペルガー症候群で元々天才の素質を持っていたという事と、「1%の閃きが無ければ99%の努力は無駄である」という本当の言葉だった。
そしてアイデアに対する自分の取り組みが正しい事を裏付けてくれた。

日本のWeb系IT企業には、Googleにシンパシーを抱き右へ倣えで「アイデアには価値が無い、配信にこそ価値が有る」と歪んだ解釈を滔々と述べる経営者が多い。
そういう時に私は「その配信サービスのアイデアは誰が?それにも価値が無いと軽く扱って来たんですか」と社員に聞こえる様に話す。
1%のアイデアすら大切に出来ない人にアイデアが集まる筈も無く、それが企業体なら社員は不信感を持ち付いて来ない。
これはアイデアを出した本人が嫌でも遣らざるを得ない様な従業員数名の零細企業でさえも起こりうる。何故なら手柄を取られた事と同じなのだから。
企業のトップが下請けに甘んじ向上心が無い半ば上位企業に守られた社会主義的な平和惚けメンタリティだと、従業員にも自分と同じ立場を強いろうとする。
然し社員は複数居る訳で全員が社長と同じ感覚の人間な筈も無く、そうじゃない社員のフラストレーションはどんどん溜まり社内が狂い始める。

抑もGoogleのインフラ的なサービス業の思想は元々日本に広く存在し、寧ろ何でも権利化しアイデアに価値を置くアメリカの中だからこそ異端児として注目された。
要するに日本はこれ以上グーグルグーグルする必要は無かったのだ。
それを曲解して追求した結果、アイデアはアメリカからパクりローカライズするだけの自ら考える事を放棄した頭脳の無い集団と化した。

インターネット黎明期の1995年辺りにマルチメディアとかクリエータという言葉が広まったが、これはコンピュータを武器にアイデアマンとクラフトマンを一人で賄いコンテンツを作って行く能力者を意味していた。
然しここでも重点が置かれたのはアイデアのスキルではなくコンピュータのスキルだった。

日本人の多くはエジソンの伝記を読み閃きより努力が重要であると本末転倒に解釈し努力する事を目的にする。
然し日本人の救いは職人気質な努力が修行という瞑想の一つの形態として息衝いて来たという事。
即ち天才でなくとも100努力すればその内の1つは閃く瞑想の恩恵が得られ、それが年功序列のピラミッド組織の中で細々と活かされて来た。
だがこれでは光の速さで世界中を駆け巡る情報化社会で知の時代を生き抜くには、人の入れ替わりを何年も待っていたのでは遅過ぎるだけでなく何より閃きを得意とする人間が疎外され非常に効率が悪い。

アイデアに真摯でアイデアマンに紳士的な経営者の下にアイデアは集まる
今後、グローバル経済に淘汰され日本社会は必然的にそうならざるを得なくなるでしょう。
コンサルタント業自体は昔から存在しますが、よりクリエイティブな能力が問われる出来高払いな成功報酬制の流れになると思います。
キーに成るのは「リアル」と「コア」。
簡単に言えば特許が取れるレベルの智慧でアイデア化出来るか。
これは評価する側の能力にも依りますが、手の込んだプレゼンをせずとも極端な話し信頼関係が出来ていれば一言で済んでしまう様なその侭ズバリの現実的な核心を突くアイデアを出せるかです。

新規性と具現性の有る普遍性を持ったアイデアの追求
その努力を惜しまなければ車輪の様なアイデアは出せなくてもシャシーにエンジンとドライブトレーンを積んで自動車の発明は出来るでしょう。
或は電話やテープレコーダの発明が出来なくともそれらを繋げて留守番電話といったアイデアは出せるでしょう。これも立派な発明品で日本の代表的な物の一つで、枯れた技術の水平思考とは玩具発明家横井軍平氏の言葉です。

そして現在その真っ直中に居る私はデジタル社会に於ける99%の努力とはコアとなる1%のアイデアをリアルに見せる整理整頓の能力であると感じています。

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