2010年3月5日金曜日

浅田真央に伝えたいたった一つの事

現在私はメンタルトレーニングを行う仕事はしておらずそちらへブレたくないので深く言及しませんが、一言だけ言わせてください。

観客は敵ではない。

浅田真央を見ていてそう思いました。
2戦目のキム・ヨナ演技直後の話です。

彼女は貧相なイヤホンで必死に観客の歓声を打ち消そうとしていました。
観客の多くは別にキム・ヨナを目当てに来ていた訳でも、だけを応援に来ていた訳でもなく、只各国から自国の応援と多くの地元市民が良い演技を見に来ていただけです。

あの時点で既に勝敗は見えていました。否、事前練習の時から顔は強張りガチガチで終始笑顔のキム・ヨナとは対照的でした。
そして浅田真央は完全にペースを失い、演技も乱れライバルに負けました。
二人は4年前と完全にメンタリティが逆転し、本番では前回の金メダリスト荒川静香に最も近い妖艶な演技をしたキム・ヨナが何の捻りも無く勝ちました。
寧ろ驚いたのはあんなガチガチの状態で銀を取れた浅田真央の凄さでしたが、次は金を取れるでしょう。

何れにしてもあの歓声を拒否していてはどうしようもありません。
ドラゴンボールで言えば元気玉で「オメーらの元気なんて要らねーからな!」と拒絶したも同じです。
キャプテン翼流に言えば観客は友達って事です。
折角キム・ヨナが前座として観客を暖めてくれた訳ですからそのビッグウェーブに乗らない手は無かったでしょう。
スノーボードのショーン・ホワイトの独り舞台見ませんでしたか?
ですから寧ろその温場に感謝すらすべきです。

未だあと最低でも2回は五輪出場出来る筈ですから全然普通に期待しています。

2010年2月9日火曜日

1%のアイデアを笑う者は1%のアイデアに泣く

子供の頃にエジソンの伝記を読んだ人は多い筈。
私はエジソンの異常行動から名言「天才は1%の閃きと99%の努力」の一般解釈「天才でも努力する」がデマゴギーで、「天才だから1%の閃きだけで99%も努力出来るのだ」と気付き興味が失せ、中学の頃には伝記がGEの広報戦略とさえ思っていた。

後に知るのはエジソンはアスペルガー症候群で元々天才の素質を持っていたという事と、「1%の閃きが無ければ99%の努力は無駄である」という本当の言葉だった。
そしてアイデアに対する自分の取り組みが正しい事を裏付けてくれた。

日本のWeb系IT企業には、Googleにシンパシーを抱き右へ倣えで「アイデアには価値が無い、配信にこそ価値が有る」と歪んだ解釈を滔々と述べる経営者が多い。
そういう時に私は「その配信サービスのアイデアは誰が?それにも価値が無いと軽く扱って来たんですか」と社員に聞こえる様に話す。
1%のアイデアすら大切に出来ない人にアイデアが集まる筈も無く、それが企業体なら社員は不信感を持ち付いて来ない。
これはアイデアを出した本人が嫌でも遣らざるを得ない様な従業員数名の零細企業でさえも起こりうる。何故なら手柄を取られた事と同じなのだから。
企業のトップが下請けに甘んじ向上心が無い半ば上位企業に守られた社会主義的な平和惚けメンタリティだと、従業員にも自分と同じ立場を強いろうとする。
然し社員は複数居る訳で全員が社長と同じ感覚の人間な筈も無く、そうじゃない社員のフラストレーションはどんどん溜まり社内が狂い始める。

抑もGoogleのインフラ的なサービス業の思想は元々日本に広く存在し、寧ろ何でも権利化しアイデアに価値を置くアメリカの中だからこそ異端児として注目された。
要するに日本はこれ以上グーグルグーグルする必要は無かったのだ。
それを曲解して追求した結果、アイデアはアメリカからパクりローカライズするだけの自ら考える事を放棄した頭脳の無い集団と化した。

インターネット黎明期の1995年辺りにマルチメディアとかクリエータという言葉が広まったが、これはコンピュータを武器にアイデアマンとクラフトマンを一人で賄いコンテンツを作って行く能力者を意味していた。
然しここでも重点が置かれたのはアイデアのスキルではなくコンピュータのスキルだった。

日本人の多くはエジソンの伝記を読み閃きより努力が重要であると本末転倒に解釈し努力する事を目的にする。
然し日本人の救いは職人気質な努力が修行という瞑想の一つの形態として息衝いて来たという事。
即ち天才でなくとも100努力すればその内の1つは閃く瞑想の恩恵が得られ、それが年功序列のピラミッド組織の中で細々と活かされて来た。
だがこれでは光の速さで世界中を駆け巡る情報化社会で知の時代を生き抜くには、人の入れ替わりを何年も待っていたのでは遅過ぎるだけでなく何より閃きを得意とする人間が疎外され非常に効率が悪い。

アイデアに真摯でアイデアマンに紳士的な経営者の下にアイデアは集まる
今後、グローバル経済に淘汰され日本社会は必然的にそうならざるを得なくなるでしょう。
コンサルタント業自体は昔から存在しますが、よりクリエイティブな能力が問われる出来高払いな成功報酬制の流れになると思います。
キーに成るのは「リアル」と「コア」。
簡単に言えば特許が取れるレベルの智慧でアイデア化出来るか。
これは評価する側の能力にも依りますが、手の込んだプレゼンをせずとも極端な話し信頼関係が出来ていれば一言で済んでしまう様なその侭ズバリの現実的な核心を突くアイデアを出せるかです。

新規性と具現性の有る普遍性を持ったアイデアの追求
その努力を惜しまなければ車輪の様なアイデアは出せなくてもシャシーにエンジンとドライブトレーンを積んで自動車の発明は出来るでしょう。
或は電話やテープレコーダの発明が出来なくともそれらを繋げて留守番電話といったアイデアは出せるでしょう。これも立派な発明品で日本の代表的な物の一つで、枯れた技術の水平思考とは玩具発明家横井軍平氏の言葉です。

そして現在その真っ直中に居る私はデジタル社会に於ける99%の努力とはコアとなる1%のアイデアをリアルに見せる整理整頓の能力であると感じています。

2010年1月17日日曜日

フォーカス(集中)

昨年末から完全裏方の実績として社名や具体名を表に出せない仕事は辞め、出せる仕事に変えました。

仕事の内容自体は以前と変わりませんが何もかもがゼロ発進、カネもコネも無い所謂「目の前に有るのは紙と鉛筆、生きて行く為にあなたはどうしますか?」的な究極の状態の再現として自分にはMac1台という条件を課しました。

環境としては十分過ぎるでしょう。
携帯電話もやめ、通信手段は基本的に手紙か電子メールです。
名刺は既に何年も前から持っていません。
自分にとってアイデアが名刺だと覚ったからです。
発想とは本来意図して狙って湧き出る物ではなく何時どんな切っ掛けで何が思い付くか分からないもっと自由な物です。
ならば肩書きを記した紋切り型の名刺を持つ事は、本来有る筈の無い無限の可能性に満ちた現世で生きる人間の自由な発想や言動をフィールドとして意識的に固定制限し狭めている事になります。
そしてそこで生まれた様々なアイデアを具現化したいという思いに駆られました。
勿論ターゲットを絞ってアイデアを出す事は可能ですが、その過程で色んな枠外のアイデアを犠牲にしている筈です。
更にもっと突っ込んだ言い方をすれば、本来アイデアを売りにして仕事している人間であれば、稼ぐアイデアも出せる筈です。
つまり換言すれば稼ぐアイデアだけ出せませんというのはおかしいでしょうと思う訳です。そう思いませんか?

だから私は考えます、何日でも何ヶ月でも何年でも。
それは瞑想で智慧を磨くと同義で、集中して考え抜く事は発想の回路を強化するのに非常に重要です。

環境を集中し思考を集中する。
何の為に?
そう、一番重要な事は目的への集中です。
先ほど様々なアイデアがあると申しましたが、分野はそれこそ家庭用雑貨から軍事兵器迄有ります。
自分にとっては大事な子供で一つ一つ大切に着実に育てたいと思っています。
だから複数同時進行的に着手するのは危険であると判断して三つに絞りました。

さて、上述して来た事は、近い将来オンライン化が進めばスタンダードなビジネススタイルになると考えています。
既にノマドワーカーなプログラマ等はそれに近いスタンスで活動されています。
オンライン上で活動しているので名刺や実績はWebサイトになり、欧米ではフリーランスは自前のWebサイトが完全に身分証明の代替、信頼性の担保と化しています。
オフ会で集まっても面と向かって喋らず、パソコンに向かいチャットをして文字で遣り取りしている姿も今や珍しくありません。
人見知りや冷静な対話には文字コミュニケーションは最適で日本人向きです。

終身雇用が崩壊した昨今、国民総フリーランス時代そして知の時代へ向け、自分のビジネススタイルを人柱として披露して行きたいと考えています。
その話のネタに先ほどの三つがなる訳です。
この先どうなるかは分かりませんが、爪痕だけでも残す所存であります!

2009年11月4日水曜日

組織内で起こるブレインストーミングの問題点

ブレインストーミングの導入に関しては以前、ブレインストーミングに欠けている2つのポイントで書きましたが、今回は運用について述べようと思います。

先ず、時間軸に乗って一方向に突っ走り易い問題。
そこで速記者が必要不可欠となる。
誰も読めない速記文字は必要ありませんが、発言を素早く全部書き出して行く人が必要になります。
平面上へ書き出し二次元化する事で容易に時間軸を遡って連想のブランチ(枝)を生い茂らしブレストの問題を緩和出来ます。

次に、馴れ合いによる飽和という問題。
早い話がなかよしクラブ化、しかも敬語でw
どんなに社内を幼稚な玩具カラーに演出したり、充実した自由で風通しの良い環境を提供しても子供の様には成れない、戻れない。
よく考えてみてください。自分の学校がそんな環境でしたか?何処にでもある判を捺した様な殺風景な教室だったでしょう。
何より人、社内に殴り合いの喧嘩や噛み合い引っ掻き合いのゴタゴタも暴力教師も居ないでしょう。
従ってこれは如何しても避けられない現象で、阿吽の呼吸で「いいね」「それいいね」と当人達は初心と変わらずやっているつもりだろうけども、同じ組織内やコミュニティでブレストを繰り返すとある種の暗黙の型が出来てしまい、それが初めの内は会社の個性というカラーと思えるかもしれないが、その上位に来るのが多様性だった事を忘れて行き、傍からは「オマエラ馬鹿だろ、こりゃダメだわ終わってる」と賞味期限切れのクリエイタを嘲笑う様に見放されて行く。そして「これがいいんじゃないか、所詮、凡人にはわからないんだよ」と自らも閉じて孤立して行く。

これが一番恐い
抑もブレストはアイデアの価値に順位付けが出来ない無頓着な凡人でこそ有効であり発揮するもの。
ブレストのスペシャリストとはそれが上手いのであって、ブレインストーマ=アイデアマンではないのです。
特にブレストを売りに目的化し易い組織は陥り易くトップに危機感が無いと継続は難しい。
社員を何年も社外へ飛ばすか、外部の人間を社内へガンガン送り込むしか方法はありません。
つまりどんなに風通しよく設計してもその窓を実際に開放しなければ意味が無いのです。

2009年8月11日火曜日

実川欣伸さん66歳が富士山登頂通算666回達成

7月22日にNHK『熱中時間』で紹介されたのは佐々木茂良さん(69)で別人です。
この方も600回弱登っており定年退職後日帰りで略毎日登ってるらしく、帰りには金時山に登り、ゴルフの打ちっ放しをするのが日課だとか。

今回666回達成された方は沼津在住で、東レ三島工場関連子会社の東平商会出身みたいです。
そういえば今日朝方の地震は震度6でしたね。

うちの父親も実川さんと同じく66歳で東レ三島出身で、今年100回目の富士山登頂と成りました。

全員、キレる老人こと団塊の世代の中心層で元気ですね(笑

因に私は小1から3回登り、内1回は台風で一人山小屋に置いて行かれ登頂していません。
8合目で富士山の雪解け水のお風呂に入ったのはいい思い出です。

2009年7月30日木曜日

稼ぎの無い坊主に智慧はあるのか

坊主の役目は経世在民の最高峰として、主に止観という瞑想の修行によって智慧を磨き民衆に智慧を授ける事。
即ち宗教色の薄い仏教教授の一歩手前、その経験談を踏まえ大衆向けに教授する説法が法話(法談)。

経世在民とは誰もが農業等の一次産業に携わらなくとも、夫々の適正で好きな職に就けて世の中が巧く回る事、またその好転している繋がりや状態を仕合せ(幸せ)と呼ぶ。
その共同体全体を社会と呼び、その社会的使命を果たす事に特化したコアな組織を使命共同体、即ち「会社」と呼ぶ。
因にこれを国家単位で組織すると社会主義国、血縁共同体で分離したのがヒンズー教のカースト制度である経国在民という思想。
そして日本国に於いては神仏習合として生死の死にまつわる行事を担う、これが我が国に於ける仏教徒のポジションである。

坊主が己の将来を案ずる昨今、元来人に智慧を授けるべき坊主が自分の様なコンサルから知恵を貰うという珍現象が起きている。
そんな彼等に対し上記で述べたコンセンサスを得つつ、次の様なアドバイスを以て最大枠の前提条件をぶつけている。

シャカ(釈迦)は抑も裕福な家庭に生を受けた言葉を操ってなんぼの哲学者に過ぎず、現在ある様な仏教という宗教団体は作っていないし作れとも云っていないし、自分が死んでも偶像崇拝はするなと云っている。
特に日本の仏教は中華仏教の亜流でありインド仏教の思想とは程遠い。
日本の仏像文化は、土着信仰の八百万の神による何にでも神が宿るという偶像崇拝に基づき、優れた人間をもまた神と呼ぶ気質とクラフトマンシップ(物作り精神)が合わさった神道が基礎となっている。
抑も仏教は天皇のお陰で布教された哲学系の外来宗教であるという認識を今一度再確認し、例え神仏混淆であっても日本国家の基本ソフト(OS)は風土から生まれた神道であり、仏教はデフラグ系ユーティリティソフト(因にキリスト教は赤十字なので外科手術や特効薬的なアンチウィルス系)という脇役であるという立場を認識する。
従って亜流に次ぐ亜流の末端たる日本の仏教宗派の袋小路に陥らない為に、一旦小さな枠組みを取っ払って原点に立ち帰る。

こうした事を踏まえ、愈々寺の運営状態を見て行くわけだが、そのコンセンサスが無いと問題点や改善策を指摘しても自虐的なメンタルブロック(固定観念)で一々ブレーキを掛けられ一向に事が運ばない。

詰まる所、稼げない坊主に智慧は無いが、稼げるからと言って智慧があるとは限らない。

2009年7月9日木曜日

KJ法考案者の川喜田二郎氏が死去

未だ生きておられたというのに先ず驚かされたわけだが。。
KJ法という名称は元々「紙切れ法」で、親交のあった京大カード梅棹忠夫氏に書類に記されていたイニシャルを使う様に示唆され正式採用された。

KJ法は探検調査による実践のフィールドワークの中から生み出された発想法で、その中でカードを使い演繹から帰納に至る全体の作業を指す。
従って一般に認識されている様なカード型整理法とは大きな隔たりがあり、ブレインストーミングをカードで代替した方法に近く、一枚の紙面上で一元的に多岐へ垂直展開し書き込んで行くマインドマップよりも自由度が高い。

マインドマップは別称「脳のOS」と呼ばれるが、実際ダイナブック構想の提唱者であるアラン・ケイがその暫定物として
1973年にコンピュータのハードウエア上で初めてGUI実現したXerox(ゼロックス)のAlto(アルト)や、それをスティーブ・ウォズニアックによってソフトウエアで実現し、1983年に初のパーソナルコンピュータとして市販化された旧Apple ComputerのLisa(リサ)ではフォルダに書類を纏めるというヴァーチャルチックな情報整理法だったので、実物の三次元作業としてはKJ法の方が近く、それを紙面の二次元作業で平面展開し図式化するとマインドマップになると言えば分かり易いかもしれない。

尤も、KJ法は1951〜1953年頃にその原型が生み出されているので発想法という点に於いては元祖と言えるが、こうした作業法は辞書に見られる様なクロスリファレンスという参照法から見れば随分と後になるし、
20世紀初頭に文章をインデックスカードで形態素化するというカード型データベースの概念を提案したポール・オトレのMonographic Principle(モノグラフィック・プリンシプル)や、1930年代にそうした概念で情報を蓄積するアーカイブを創設しようとしたH.G.ウェルズWorld Brain(世界の頭脳)よりも後になるし、1945年にそれ等を全て接続して検索するという巨大頭脳の概念を論文『As We Nay Think(人の思考のように)』に記したしたヴァネヴァー・ブッシュMemexよりも後になる。
そしてそれをコンピュータで具現化したのがHypertext(ハイパーテキスト)Hypermedia(ハイパーメディア)という言葉の生みの親であり1968年にHypertext Editing System (HES) を開発したテッド・ネルソンと、マウスの生みの親であり1868年にNLS(oNLine System)を開発しGUIを初めてデモし「The Mother of All Demos(すべてのデモの母)」と賞賛されたダグラス・エンゲルバートだった。
以降、1977年にはヴァーチャル空間をシミュレートする初のハイパーメディア・アプリケーションであるAspen Movie Map(アスペン・ムービー・マップ)、80年代には初のパソコン用UNIXアプリケーションソフトのGuide、ティム・バーナーズ=リーWikiの起源とされるENQUIREを開発し80年代終わりにはNeXT上で動作するWWW(WorldWideWeb:ワールド・ワイド・ウェブ)も同氏によって開発される。
他に87年にはビル・アトキンソンによってHyperCard(ハイパーカード)がMacintosh用に開発された。
そして1992年にはマーク・アンドリーセンによって初のWWWのインターネット・ブラウザであるMosaic(モザイク)が開発され、後にNetscape Navigator、そしてFirefoxへと発展して行く。

抑も発想の元は、情報の蓄積や整理という情報を検索し引き出し易くするデータベースが脳に情報基盤として存在しなければ成らない為、KJ法はMemexを最初に具現化した方法とも言える。
詰まる所矢張り集合知の実現であり、アナログであれデジタルであれ外部若しくは自身による記憶の認知という気付きを補佐する、言わば智慧のバイオフィードバック装置と呼べるのではないだろうか。

…等と想いを廻らせました。

ご冥福をお祈りします。

2009年5月19日火曜日

瞑想の効果とは何か

瞑想は英語ではメディテーション(Meditation)と呼ばれ、集中や心身訓練といった意味を有する。
瞑想法はヨーガ(インド)から西洋へはヘシカズム(キリスト教)、日本へはインド仏教→中華仏教を経て禅定といった言葉で広まった。

と、ここ迄は共通認識に然したる違いは無いのだが、問題は効能の表し方である。
ハッキリ言ってしまえば、静座し黙想する所謂瞑想”によって齎される効果は人夫々違い限定出来ないが、どの瞑想法を用いても瞑想到達深度や進行速度に違いはあっても現れる効果は同じであるという事。
要するに自律神経系が最適化される為、弱き所は強く強き所は弱く安定調整される。
只それが本来備えている能力より可成り劣る為、強き所は弱くという面が少ないだけに過ぎない。
勿論、自律神経系を支える肉体が鍛えられればベースアップが図られ強き所を更に強化する事が出来る。
正にヨーガはアーサナ(ヨガのポーズ)によって肉体も養われるので、能動的にはコンセントレーション(集中力)が高まる一方で、受動的にはセンシティブ(鋭敏)になる。
具体例としては次の様な状態が見られる。
直ぐ腹が減り、直ぐ満腹になる。
→(食い溜めせず)マメな食事をと指導

直ぐ眠くなり、直ぐ目覚める。
→(何時間寝なければという自己暗示で)二度寝しない様にと指導

肌が若返り、アカがポロポロとニキビも出易くなる。
→(新陳代謝が活性化するので)今迄以上の肌手入れをと指導

五感が敏感になり、気が散り易くなる。
→(集中時の効率は上がっているので)気が散ったら中断しONとOFFのメリハリをと指導

気付きや記憶力が増し、何を忘れたかも気になる。
→(些細な事でも気掛かりなら)ある程度の記憶が溜まったら書き出しをと指導

好きな事や得意な事で集中力を発揮し、他はどうでもよくなる。
→(目的設定が明確化されるので)他のあらゆる事を好きな事に結び付け手段という切り口にと指導

精力が増し、負傷や事故をし易くなる。
→(筋力が置いて行かれているので)基礎トレーニングをと指導
従って当方では漢方薬的な「食欲増進」とか「不眠症改善」といった一方向の利点を効能として唱う事は無い。

他に齎される神秘体験や瞑想法の違いについては又次回。

2009年4月27日月曜日

発想の思考体系

これから話す内容は、自分の生業の要である“発想”についての体験をリバースエンジニアリングして図示するとこうなりますという類の物であって、これが真理だとか唯一無二だとか言う話ではありませんのでご了承ください。

発想(アブダクション)とは、思考の再生産であり連想そのものである。

人間はゼロから発想する事が出来ません。故に連想なのですが、生まれ持った自身の本能と外部からの環境情報を結び付け知能が発達して行きます。
その際の記憶も又、連想で紡がれて行きます。
そして世代を重ね乍ら脳のキャパシティをアップグレードして来ました。

さて、発想をするに当たって私は大きく6つの要素に分類しております。
図に在る様に上から順に説明して行きますが、先にお話しした様に発想をするには予め連想先の情報の下準備が目下必用になって来ますし、又その仕込みの為の前技といった要素が6つ目の連想に至る前に5つ存在すると理解頂けると把握し易いのではと思います。


モチベーション(意欲)
動機が何であれ、これが無ければ始まりません。

イニシエーション(通過儀礼)とベンチレーション(換気)のプリショットルーチン
プリショットルーチンとはゴルフショットの前に個々で行われるパターン化された決まり動作の事です。
つまり練習の時と何ら変わらない普段通りの一緒の行動を取る事で、特別な舞台での精神的プレッシャに押し潰されない様に扁桃体の示す恐怖感を大脳記憶の論理的にも説明し易い日常動作イメージと摺り替えるメソドです。
大リーグのイチロー選手が、バッターボックスに入ってから行うバットを垂直に立て袖を引くといった一連の動作もそうです。
尤も、スポーツの様なプレッシャは無いわけですが、殊発想に於いてはリラック状態でふらふらしたりぼけっとしている方が着想し易いので、突然の急ぎ仕事に見舞われたいざという時の保険です。
その一つが自分なりのイニシエーション(通過儀礼)と、汚れた空気を酸素を沢山含んだ新鮮な空気を取り込むベンチレーション(換気)です。
当初はこんな話しを長々とした所で誰も耳を貸さないだろうし、エネルギーの無駄で一人馬鹿を見てるみたいで何だか恥ずかしかったので自分だけの秘め事にしていたのですが、NHKの番組で宮崎駿が仕事場に挨拶し換気するという自分と全く同じルーチンをこなしていたので載せました。
流石、民俗学に精通した人間はわかっておられる。
スポーツ選手もグラウンドに挨拶していますよね、あれと一緒です。
こうした話は後のインスピレーションの項で話します。

コレクション(収集)
集めるという行為は、動物にとって餌を獲り蓄えたり草木を身に纏ったり住居の一部にするといった生きる事に直結する本能的行為です。
人間は知能が発達し物質から物質の情報、情報その物へと指向して行きました。
しかし多くの答えはそれを育んだ物質たる自然環境に多く存在していると思います。

オブザベーション(観察)
集められない物はその場で観察し情報収集となり、観察がその侭連想に直結する事も多いので、五感をフルに活用して認知する事が求められます。

アソシエーション(連想)
さて様々な下拵えをした所で愈々連想という本題に入ります。
連想には「意識」「前意識」「無意識」という大きく分けて三つの深度からなる意識レベルが在り、上位の意識を基準に不規則に行き来していると捉えております。
ただ誤解してほしくないのは、深ければいい情報に出会えるというわけではないという事です。
確かに深く迄アクセス出来れば広がった分だけ情報帯域が拡大するわけですが、実際は深度が増す程アクセス出来る滞在時間が短くなり、それも意識レベルの浅い所迄如何に引き上げられるかという釣りで云う所のフッキングの能力に大きく左右されます。
その能力をアップする方法については、又別の回で触れたいと思いますが、要するに図示している様にその意識レベルとは肯定法による瞑想によって到達しようとするレベルその物だという事です。

アスピレーション(大志,吸引)
汗水垂らして努力すれば誰にでもチャンスを掴める連想活動という事になります。
深度が浅く意識がハッキリしている状態で、
相対的に自分の深度の立ち位置を認知する上でも基準となる重要なファクターであり、思考の芯がブレない様な大枠たる大志、マインドマッピングで云う所のセントラルイメージを保ちつつより深い意識レベルから吸引、そして吸い上げた情報を統合するという役割を担っています。

インスピレーション(霊感,着想)
人間が未だ死と隣り合わせだった時代、生死と向き合い生き存えようとする智慧を得る為に、神という概念を自然環境による生命力という観念の外部情報からインスピレーション(霊感)を得た、即ち精霊として感じ取りました。それが想像(イマジネーション)が着いた瞬間の入り口たる着想です。
そしてその生命力とそれを感じ取る能力を「霊力」と呼び、様々な事象から真理を見抜く“帰納(インダクション)”、又逆に数限られた事象から様々な事を見通す“演繹(デダクション)”、総じて「悟り(リアリゼーション:認識)/覚り(アウェイクニング:覚醒)」と呼びました。

イマジネーション(想像,空想)
冒頭のアソシエーションで申しました様に、どんなに想像や空想をしてもその領域から意識下に引き揚げる際にその記憶の断片も掴んで引き上げられなければ収穫はゼロです。
インスピレーションからの延長で直観に於ける様々な記憶を結合し統覚による統一像、即ち想いが像として脳裏に映されている想像の自覚がある内は意識レベルは人並みで安全圏すが、空へ想いが解き放たれる空想からその状態すら全く自覚、認知出来ない「(意識下へ)帰って来れない」という解離の状態に迄連想が大発散してしまった場合は、最早現実との区別が付かない事を意味するので大人であれば危険です。
そういう意味で空想を表現としてアウトプット出来る芸術家は、それが薬物に因る物でなければ精神異常と紙一重の能力の持ち主と言えるでしょう。

さて、三つの連想について話して来ましたが、それが理解出来ると右隣に例として記した「1(1人)」「1対n(1人対複数)」「n(複数)」によるアイデア出しの位置付けも理解頂けるのではと思います。
ホットリーディングコールドリーディングが入っているのは、結局連想というのは既存の情報に基づいた推理や推測とも言えるわけで、それを受け取った側の解釈次第で発想によるアイデアだとか、それこそ霊能力による霊視であるとか変わって来るのだと思います。
私なんか目を瞑ってじっと人の話を聞くので「オーラの泉」だとか、時には空寝(そらね)と言ってクライアントが会議してる傍らで横になって寝たフリをし乍ら参加してるので「チャネリング」と呼ばれています(笑

仕事の話ついでにもう少しイニシエーションとベンチレーションについて掘り下げると、前者が名刺交換、当方は名刺を持たないのでアイデア提示、後者が第三者の介入という社内の風通しを上げるコンサルティングとなります。

所で宮崎駿の条、理解出来ましたか?
インスピレーションを働かせてみてください。
では、そうした件も含めて纏めに入りたいと思います。

猿が人を創造し、人が神を想像した。

故に人間の最初の想像の産物である神を十分理解しリスペクト、即ち自然に敬意を払い大切にしなければなりません。
そしてそれが出来るのは、先進国に於いて土着信仰を神仏習合の前者、即ち神道として確立している日本人だけであるという事、他国は日本で言う所の外来宗教である仏教に相当する哲学系宗教という後者しか持ち合わしておりません。
従って先進国に位置し乍ら土人文化の荒々しさと制約無き発想力を持ち合わせる日本という国で生まれ育っただけで、十二分に恵まれているし勝ち組なのです。
発想はお金が無くても出来ます、そして発想を出来ない人からお金を頂けます。

2009年4月24日金曜日

経営は管理目線、営業は現場目線

実は企業の屋台骨たる稼ぐ仕組みの運用という意味に於いて差異は無い。
確かに営業は経営に内包し管理される立場に在るが、少なくとも「=販売(要員)」ではない。

管理の少数が企てた計画に則り、現場の数を増やし如何に一人当たりの負担を減らし楽をさせつつあわよくば賃金をも増やせるかが、“会社”たる企業運営のテーマである。
即ち企てた管理側たる経営者の能力次第で、現場側たる営業陣の負荷と利得が大きく左右される事になる。
だからこそ上に立つ者の基本給は高く、現場が直面する試練がそれを与えた管理の怠慢であっては決してならないのだ。
そしてその怠慢を歩合制による給与の跳ね上げに摺り替えた時、何時しか現場は暴走し、リーマンブラザーズの様な破綻を招く。